晩春の夜風に薫る記憶は 20
キイロイトリさんによる写真ACからの写真

≪ 第二章 おしゃなりさま 8 ≫



   三


 風が蚊帳(かや)を通して寝床へと流れ込んでくる。

それは実に穏やかで、やはり微かに潮の香りを含んでいた。

 夜はすっかり明けきって、障子越しに射す光も暖かい。


「近くに海があるんですか?」


 起きて着替えた真人は、
用意されていた少し遅めの朝食を摂りながら千代に尋ねた。


「ええ。ここは昔から漁業で生計を立ててきた村なんです」


 千代が静かに口許を綻ばせる。


「へえ、ここは漁村だったんですか」


 頷きながら、確かここは山奥のはずでは、と尋ねようとしてやめた。


「よかったら行ってみませんか? 海に。
昨夜真人様がお休みになった後、ひどい雨が降ったんですけれど、
今はもうすっかり晴れていますし。私がご案内いたしますから」


 微笑む千代の顔は少し青白い。

やはり昨日は眠れなかったのだろう。

今は日中なので燕尾服ではなく若葉色の着物を身に纏っている。

それが却って彼女の肌の白さを際立たせていた。

 今日も着物なんだ。呟くと、洋装は燕尾服で十分ですから、と千代が苦笑う。

 これ以上悲しげな顔をさせたくなくて、真人は声を張った。


「案内してくれるなら、行ってみようかな」


 意識して頬の緊張を解いてみせると、千代がほっと吐息を洩らした。


「じゃあ、私、準備してきますね」


 席を立ち千代が部屋を出る。

すると、待ち構えていたかのように、開け放たれた障子の向こうから聞き覚えのある声がした。

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オープニング背景画像:ぺるみけさんによる写真ACからの写真