晩春の夜風に薫る記憶は 21
キイロイトリさんによる写真ACからの写真

≪ 第二章 おしゃなりさま 9 ≫



「逃げるんじゃ、若者よ」


 現れた背の低い老人が、僅かに残った木々の雨水を弾き、厳しい表情で見つめてくる。


「このままではお前さん、五月の風に取り込まれるぞ」


 苦り切った口調で見据えてくる老人に、真人は眉根を寄せた。


「それは、どういう意味なんですか?」
「どうでも良いからついてこい!」


 老人が苛立ちを顕(あらわ)に声を荒げる。

真人はそんな老人を眺めていたが、しばらくして緩くかぶりを振った。


「千代さんを放っておくことはできません」


 老人は瞳を丸くし、呆れたように肩を落とす。


「愚かなことを。どうなってもわしは知らんぞ」


 老人が気分を害したようにそっぽを向く。

視線の先へ目をやると、隣の縁側に燕尾服とシルクハットが丁寧に揃えられていた。


(陰干しか。毎日着るからかな?)


 なんとなく濡れているように感じるのは、洗ったからだろうか。


(マメだなあ)


 匂いが籠ってしまうのが嫌なのだろう。

女性らしい千代の行動に口の端を緩めていると、老人が鼻を鳴らした。

馬鹿者が、と短く言葉をはき捨て、老人が虚空へ消える。

誰もいなくなった庭を眺め、真人は重い息を吐いた。

ふと思い立ち、尻ポケットに入れたままのスマートフォンを取り出す。

時刻を確認しようと電源を入れるが、何度やっても起動せず。

液晶は黒いままである。


(充電切れちゃったか……)


 しかたない。

真人は脇へ置かれていたリュックを引き寄せ、充電器をひっぱり出す。

コンセントを探して部屋中を二周するが、どこにも見当たらなかった。


「マジ?」


 ここまでレトロな土地へ来たのは生まれて初めてだ。

真人は充電器を頬り投げ、天井を見上げる他なかった。

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オープニング背景画像:ぺるみけさんによる写真ACからの写真